まごころのぶ

2021年1月10日に急逝した愛する「のぶ」の生きた足跡です

day354 年末の鰻

今日、年末で賑わうスーパーマーケットで一人で買い物中。平置きの冷蔵庫内の鰻のパックを選んでいたら、何も言わず老人(ジジイ)が私を突き飛ばすようにして横にずいッと来て、鰻のパックをむしり取って来た。私はこんな人間とは密になりたくないので慌てて買う予定の数を取ってその場を離れた。

 

ジジイは売り場を荒らすようにパック鰻を散らかして掴んでカゴに入れ、ブスッと不機嫌そうに周りを威嚇するように睨んだ。

 

こんな迷惑な人間にも正月は来る。

 

のぶならこんなこと絶対にしない。

 

のぶは絶対にこんなジジイにはならなかったと思う。

 

(数年前に浜松八幡宮の餅まきに参加したことあるけど、のぶの所にちょうど投げられて来たお餅とみかんを隣にいたおばさんがのぶの腕からひったくったけど、のぶは「良いですよ」と言ってあげていた)

 

のぶはこんな地獄のような弱肉強食世界には合わないのだ。優しくて生きていくのが難しかったのだ。

 

のぶの大好きな鰻。年末恒例なのに今年は一緒に食べれなかった。でも、一緒に食べているつもりでいる。

 

 

 

day353 アトリエ

いま現在私が住んでいるアトリエは、2005年に完成した小さな家。1階が仕事場と小さなギャラリー、2階が1LDKの住まい。

 

もとは60年ほど前、母が退職金(祖母がやっていた自営を手伝っていた)で購入した土地に、父名義で小さな家を建て、ここに住んでいた。姉も私もここで生まれた。その後、すぐ近くの土地を買って新しい家を建てた(父方の祖父母と同居するために大きな家が必要だった)。


引っ越し後に空き家になった家は人に貸したり、姉が結婚後に数年住んだりしたけど再び空き家になり、私が仕事場として使っていた。そうしているうちに製作の傍ら始めたネット通販が忙しくなり、手狭になったので建て替えることに。2000年代初めころに海外から商品を取り寄せネット通販していたのはけっこう早めだったと思う(まだあまりPCが使えなかったので、海外への発注はほとんどFAXでやっていた)。


土地は父名義のままで、自分名義のアトリエ兼自宅を建てた。初めて自分名義の物件と借金(ローン)。設計にはかなり自分の意見も入れてもらい、ギャラリーにはアンティーク家具を置き、理想の城を作ったつもりだ。「自分はきっと結婚しないし子供も持たない」と思ったので2階の自宅は、1人用の1LDK。35歳くらいのこと。ローンも返し、仕事も絶好調で、自分の皇帝時代だ。

それからはほとんど仕事だけの毎日だったけど、2011年にのぶと出会い、しばらくして2人で浜松に家を借りた。週に2,3日はここアトリエで、のこりは浜松を往復する日々はのぶが亡くなるまで10年続いた。そして、また私は毎日ここにいる。

のぶはあと2年半で定年、というところで亡くなった。定年後は会社に残らず、どこかでシニア就職する予定だった。もう両親もなく兄弟もなく仕事もやめればしがらみは無くなり、どこに住んでもいいと言っていたので、それなら家賃のかからないアトリエに住もうと私は行っていたし、その予定でいた。もちろん義実家をくずし借地を返す大仕事はあったけど(結局それは私がやった)。

のぶは本当に浜松を去っても良かったんだろうか。浜松を出たくなかったんじゃなかったのか。のぶは一度も浜松以外に住んだことがない(浜松は名古屋ですら通える利便性の良い場所にあるから)。

のぶはあまり心の奥底を人に…家族であった私にさえ…ほとんど話していなかったと思う。のぶの本当の気持ちを訊くことができなかった。家賃がかからないのはいい。でも婿のようになりたくない…だったのかもしれない。そういう男の小さなプライドは捨てられないタイプだったと思う。わからないけど。

 

 

day351 仕事納め

毎年仕事納めの日(曜日によるけどだいたい12月28日前後)には、のぶと私のお疲れ様会で、鰻を食べに行っていました。

 

去年も行きました。

 

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浜松は鰻屋さんが多いので、年末と夏の土用の丑の日は必ず何処かに食べに行きました。もちろんその日以外の何でもない日も。

 

浜松を離れてしまったので、もう鰻もそうそう食べれなくなりました。

 

のぶがバリバリ働いていた姿が懐かしい。仕事場に行ったことはないけど、きっと一生懸命び働いていた。のぶも復帰したかったと思うけど、いっそのことスッパリ辞めていったん仕事をリセットすればよかったと思う。

 

やっぱり憎むべきはのぶの命を奪った病気。

 

 

 

day350 50回目の日曜日

もうそんなに経ったのかという思い。

 

12月26日は、昨日書いた通り、義母の命日。とても慌ただしかったとしか思い出せない(お葬式が29日だった)。

 

寂しい年末。

 

今年夫を亡くしたイギリス女王のクリスマス・年末のメッセージでも、寂しさについて語っていた。

 

70年連れ添った女王でも、10年しか一緒にいられなかった私も、片割れを失ったら同じように悲しいのだ。

 

day349 2015年のクリスマス

2015年の12月25日の朝は最悪な知らせで始まった。

 

義母が自宅で倒れているのを近所の人が発見し、救急車で運ばれたという電話だった。

 

のぶと私はすぐに救急病院に向かった(義母は意識がなかったけどかろうじてまだ息はあったけど、対面の前に警察から事情聴取されたのにはちょっと驚いた)。

 

実家で一人暮らしだった義母。実家は築60年以上でとても寒い。サッシではなくいまだに木戸だったので、ストーブのない場所はとても寒い。倒れていたのがトイレに続く廊下の横の土間だったので、急激な温度変化による脳梗塞か心臓発作かと思われた。朝までその場に倒れていたので低体温症になっていた。腎臓もかなり悪くなっていたようだ。

 

私は猛烈に反省した。もっと体調に気を使ってあげればよかったと。のぶは毎日会社帰りに実家に寄っていたし、つい2日前の天皇誕生日にも一緒に外食に行った。のぶに任せっきりだった自分を責めて、祈った。

 

しかし結局、意識が戻らず、朝に運ばれてから夜まで待機していたけど、のぶと私はいったん家に帰ることにした。そして眠れない翌朝6時くらいに、亡くなったと病院から電話があった。

 

たぶんとても苦労してのぶを育てたのだということはわかっていた。のぶに会う前にすでにのぶの父親は亡くなっていたけど、長いこと介護したと言っていた。私が義母の人生がどうだっだかなどいう権利はこれっぽっちも無いけど、結婚をとても喜んでくれたことだけは幸いだったと思う。結婚式に参列してくれて本当によかった。

 

もっと親孝行はすべきだったと思う。ほとんど何も出来なかった。だからこそのぶを幸せにしたかった。

 

のぶは義母の死以来、落ち込むことが多くなったと思う。会社を休む期間が年々増えて行った。どうやったら救えただろうと、どうしようもないことを考えてしまう。いまはのぶ一家はみなで楽しく暮らしているだろうと、思うしかない。