まごころのぶ

2021年1月10日に急逝した愛する「のぶ」の生きた足跡です

6日目。土曜日

先週の土曜日、つまり1月9日土曜日。私がのぶに最後に会った日。

 

その日の午前中、私は浜松の自宅でいつものように作品製作の仕事をしていた。のぶは体調が悪く、ベッドで寝ていた。10時頃にのぶが起きて来て、私の部屋に来て製作中の作品を見て「わあ、すごいね」と言った。彼が私の作品を褒めるのは珍しい。しかも体調が悪いのに。続けて「お昼ごはんどうする?いつものキッチン泉でカキフライ食べる?」と私にに聞いた。

 

のぶの体調が悪そうだったので、「大丈夫?体調が悪そうだから、何か作るよ。肉まん蒸すよ。寝てな」と私が言うと「うん」と言って彼はまたベッドに戻ってった。

 

お昼は肉まんを一緒に食べたのだけど、今後のことを話しているうちにケンカになってしまった。たぶん、よくある夫婦喧嘩だと思う。コロナ禍のこんな不安定な社会で不安定な心。

 

私は家を飛び出した。実は少し前から、ちょっと離れて暮らしてみたらどうかと思っていた。二人とも疲れていたし、私はのぶを傷つけるような言葉や行動をとるのが怖かった。だから1週間でいいから離れて暮らす方がいいと思った。彼は「それはやめた方がいい」と言っていたけど、それ以上は言わず、出て行く私の車を見送った。

 

65km離れた実家に帰り、のぶと電話とメールをした。明日、会いに来るからもう一度話そうと言うのぶの言葉で電話を切った。次の日、のぶは来なかった。メールも電話も繋がらなかった。

 

嫌な予感がしてあちこちに電話をしていたら、警察から電話があった。のぶが部屋の前で倒れていて、住民が救急車を呼んでくれたと。私の頭は真っ白になってしまい、それでも一人、また65kmを戻った。結局、生きているのぶには会えなかった。

 

猛烈に後悔をした。私が家を出なかったら、倒れることはなかっただろうし、もしそうなってもすぐに救急車を呼べた。夢であってくれと本気で思った。願った。泣きまくった。その後は警察や病院や葬儀社やいろんな人といろんなことを話したけど、あまり覚えていない。実家近くの叔父と叔母が浜松まで65kmを運転して来てくれた。私はのぶが息を引き取った自宅には帰れず、また65kmを実家まで戻った。

 

自宅のベランダには、その日の朝、のぶが洗濯した洗濯物が干したままだった。